伊豆半島ロケ地巡拝ラリー2007
宿に戻り、朝食とひとっ風呂浴びてチェックアウト。ホテルのフロントの人にはタクシー手配してもらったり、シップもらいに行ったりといろいろお世話になりました。
昨日の国道ではなく定番の婆沙羅峠越えで松崎町へ向かいました。やっぱりこっちのほうが早い。
9:30頃、松崎町のふるさとガイド・囲炉裏端さんの待つ「花の三聖苑」に到着。ゴールデンウィークに行ったときはお会いすることができなかったので1年ぶりの再会です。まずはゴールデンウィークの“不手際”をお詫びして、囲炉裏端さんに町内を案内していただきました。今回は依田勉三さんの兄・佐二平さんにスポットを当てつつ、大沢周辺を散策しました。
依田 佐二平
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「花の三聖苑」内に建つ佐二平さんの銅像。
佐二平さんの写真。やっぱり勉三さんに似てる。
佐二平さんの略歴。大沢学舎(現在の小学校にあたる)の創立、弟・勉三さんと共に北海道・十勝の「晩成社」設立に尽力さ れました。
川舟就航の碑
いまの穏やかな流れ(右画像)からはなかなか想像つきませんが、那賀川の水流を林産物の輸送や人々の上り下りのために利用していたそうです。明治40年に県道下田松崎線(松崎街道)の開通と同時に、馬力輸送に変わっていきましたが大正7年(1918)頃までは残っていたそうです。 石碑には花嫁さんが佐二平さんの息子さんのところへ嫁ぐ際に川舟が使われていたことも記されています。川舟にまつわるエピソードはほかにもあって、晩成社の幹部であった渡辺勝も北海道・十勝を開拓に行くときに、川舟で下ったことが記された日記も存在しているそうです。
大沢砦山公園の中にある神社。この裏手にはかつての大沢城跡があるそうです。
依田本家の墓。ちなみに北海道帯広市の「中島公園」には依田勉三の石碑(下画像)が建立されています。
こちらの画像は本公開後に囲炉裏端さんから新たに頂いた画像です。
昭和10年過ぎに依田リクが北海道でなくなった際に親族の方が開拓魂を憐れむため、自分の墓所に建てたものです。依田勉三が北海道開拓の晩成社を組織して渡道する時に、まだ幼い子ども・俊助と親子の縁を切って別れるのですが、俊助はわずか半年で亡くなってしまいました。そして勉三は開拓のために病弱な妻「リク」とも離縁をしたそうです。
身辺を整理してまで北海道の開拓に尽力された勉三さんの想いを感じさせる涙ぐましいエピソードです。(08.2.5追記)